金剛石目塗の歴史的背景 | ||
我まち静岡は、伝統産業の盛んなまちです。 これは、静岡が古くから地域の政治や経済の中心であったことと 深く関係しています。 今川時代に、「中川大工」と呼ばれた職人達によってお椀が 造られていた事が記録に残っています。 |
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産業としての漆器づくりの基礎ができたのは 江戸時代になってからだと言われています。 1634年(寛永11年)徳川三代将軍家光の時、 静岡浅間神社造営のため全国から、大工や 漆工などの職人を集めました。 建造工事が終わった後も、多くの職人が |
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自然に恵まれ気候温暖な静岡(駿府)に残り 地域の人々にその技術を教え伝えたのが 始まりだと考えられています。 徳川八代将軍吉宗の時代(1716−1735)には、 江戸幕府の特別の保護を受け 1867年(慶応3年)にはパリ万国博覧会にも |
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出品され外国にも広く知られるようになりました その後長い間、静岡漆器の輸出は続き外貨を稼ぐ産業として発展しました。 しかし、明治以後は、外見が良くて値段の安いもの、つまり質が悪く 実用に耐えられないような漆器が作られ始めました。 塗物は、完成すると外見では下地などの基礎の仕事の内容はなかなか 分りません。そこに目を付け、漆を使わない下地(紛下地/まがいしたじ) が行われてしまったのです。 |
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こうした手抜きによるコストダウンと 納期短縮によって一時は生産額も増加 しましたが 結局は内外の需要者の信用を 失って減退の一路をたどりだし、 漆器産地としての地位を失って行ったのです。 |
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現在 静岡には漆器の大産地であった面影はありませんが 小規模ながら 誠実な漆器づくりが行われ優れた製品が作られています そんな静岡の中にあって、大正時代より日本一堅牢といわれる 下地法(砂の蒔地)による漆器を造り続けたのが 金剛石目塗だったのです。 静岡県の無形文化財にも指定されております |
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